脱ルッキズムを目指して

セルフケア

最近よく聞く『ルッキズム』って?

近年、『ルッキズム』という言葉を
ここ日本でもよく聞くようになりました。

ルッキズム: lookism)とは、外見に基づく差別または偏見である[1][2]。主に人間が、視覚により外見でその価値をつけることである[3][4][5][6]。「look(外見、容姿)+ism(主義)」であり、外見至上主義[7][2]美貌差別[8]外見差別外見を重視する価値観などとも呼ばれる[2]。「容姿の良い人物を高く評価する」「容姿が魅力的でないと判断した人物を雑に扱う」など、外見に基づく蔑視を意味する場合もある[5][3][4][6]

外見至上主義者をルッキスト(lookist)と呼ぶ。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

端的に、昔からの言葉でいうと

人を見かけで判断すること

でしょうか。

ルッキズムに関してはコチラにも詳しく書かれています。
この言葉にまつわる事情が理解しやすいです。

無意識に溢れるルッキズム

他人の外見(主に顔ですかね)の良し悪しで
会話に花が咲く…なんてこと、
正直にいうと誰もが経験していると思います。

ですが、道徳的な話になると
それらの行為は一切NGと学んできて
社会的にもそれが正解となってます。

でも実際には、実生活の中で
『ルッキズム』を意識してみると
こと日本に於いては
毎日のように外見での優劣
メディアはおろか
僕ら一般ピーポーの間でも

「話さない時ってないんじゃないの?」

ってくらい横行してます。

無意識のルッキズム、気づいてますか?

誰々が可愛い~

誰々がブサイク~

誰々スタイルが~

誰々の身長が~

変な話、例えばこの話題を
法律で禁じて犯罪にしたら
国民の過半数は総じて犯罪者でしょう(笑)

実際に外見を利用したビジネスはおろか
そうじゃないビジネスさえ
ほとんど追放される
のでは?
そのくらいまかり通ってますよね。

僕も、本当ここ最近ですが
やっぱり見た目から人を判断するのって
ナンセンスだしそもそもダサい
っていう至極頭の悪い理由ですが
なるべく意識的に
ルッキズムからの脱却を
図っているつもりなのですが…
正直、めちゃくちゃ難しいです。

つい言ってしまうのが、子ども。

ちょっとした仕草も含め、
半ばその場の空気の為に

「可愛いねぇ~!」

なんて言ってしまうこともしばしば。

「別にそのくらい良くない?」
「悪意ないし褒め言葉なんだし」

そう思うのも無理はないというか
実際良いと思うんですよ。

少なくとも、言ってる本人は。

「悪気が無い」ってやつですね。

悪意がなければ、いいの?

ルッキズムって
容姿の劣悪の部分に
フォーカスされることが多いですが

世間的には褒め言葉というか
『称賛』の言葉

果たして、言われた本人は
どう感じてるか?

そこに至る話って
あまり語られてないんですよね。

この部分って割と置き去りにされますが
ルッキズムを離脱する上では
非常に重要だと感じてます。

その言葉、『重荷』かも知れませんよ?

『可愛い』

とか

『カッコいい』

って

自信を形成されてない
自分の持ち味がまだ分からない
そんな子どもたちには
ともすれば

「あ、可愛くないといけないんだ」

とか

「自分は見た目だけしか取り柄が無いんだ」

と思い込んでしまうくらい
足枷になるコミュニケーションのように
自分は思ってます。

というのも
ちょっと自分の話をすると

僕はそういう意味では
よくそういう言葉をかけられることが
多々ありました。

初めて会った人に
顔から褒められる。

それって嬉しいことだと
思われがちですが

初対面なのに、一方的に
100点からスタートすることと
一緒でもあったんです。

運動も苦手だったし
勉強できるわけでもないし
絵は好きだけど、文科系はモテない時代(笑)
他に取り立てて、誰かに自慢できる
スキルが無かった僕は、
例えば運動が苦手ということがバレると

100点から30点減点の、70点

何かミスをすると

20点減点で、50点

そうなるともう早いもので

「え?コイツ顔だけ??」

「マジ何もねぇじゃん」

そんな風に評価はどんどん下がる一方…
そんな錯覚に陥ってました。
事実、言われたこともたくさん。

そうやって、顔を褒められることは
どんどん重荷に
なってきました。

ハイ、悪気無く褒めても
大人たちの知らぬ間に
めっちゃ簡単に
自信がない子どもの出来上がり。

自己肯定感なんて
育まれにくくなります。

そこで、自分の見てくれを
武器として扱える
くらいの
潔さというか、強かさがあれば
状況は変えれたかもしれません。

でも、子どもですからね。
極端な話、褒められても嬉しくないから
顔を隠して生きていきたい
思うようにもなっていきます。

「他の自分を見てほしいのに…」

もちろん全部そうじゃないし
自分の誇りたいものを
見抜いて接してくれる
そんな人たちも少なからずいました。

でも、このような
外見からスタートの減点方式だと
そのあとの加点までが
はるかにしんどくなるし
そもそも、人と関わる度に

「あ、またちゃんと見られてない」

子どもならそう思っちゃうものです。

子どもって、褒められるより
見ててほしい
んですよね、きっと。

そして、やっかまれる…

そして、大人になっても
このようなエピソードを語ると
ほぼ100%で

「いや自慢かw」

「ナルシストwww」

「そう思えない人間もいるのに、贅沢」

まず間違いなく
こう言われるのがオチだったので、
人前で言うことも無くなります。

それ故に病気になる人も
事実少ないないでしょう。

いや、外見が良いのが上って
そんなルールありましたっけ?

実際、良くてもスレちゃって
腐っちゃう人間もいるんですよ?(←ココに

もちろん貶されるのは嫌だし
自分も背が低いで散々言われました。

でも、それを我慢する理由は
どう考えても見当たりませんよね?

見た目を貶すも褒めるも、ルッキズムだ

外見を貶す行為って
言わずもがな
年を重ねれば重ねるほど
醜い行為でしかないし
子どもが生まれると
TVタレントの、職業としての
そういった行為ですら
(持って生まれた見た目で笑わせる)
正直異常な世界に見えて
ちょっと受け付けれなくなりました。

それで商売してるという
意見もあるでしょうけど

「自分を抑圧してしまってるんじゃ?」
「そういう世界だと、我慢してるだけでは?」

別にこう考えてもいいですよね。
むしろ、良くないことと教えられてきてたんだから

「そもそも大前提からおかしくないか?」

こう考えると
より一歩違った目線が
出来るようになるのかなと。

なんで、主語が貶す方なんでしょうか?
なんで、主語が褒める方なんでしょうか?

それこそが、ルッキズムかなと
自分は思ってます。

逆に
主語を相手に変えてみる
そもそも外見の話は出てこないかも
そんな気もします。

想像力を働かせて、今日も人と関わる

誰だってコンプレックスを持ってて
そのコンプレックスは
他人には完全には理解されないもの

自分が言われて嫌なことを言わない
のではなくて

相手が言われて嫌がりそうなことは言わない。

これって似てるようで
全く違う行為
ですよね。

そういう想像力を
相手に働かせてみる。

それだけで違うように思います。

そう、脱ルッキズムのカギ

想像力

を、働かせて

相手の立場に立って
考えてみる

そう感じています。

自分が言われて嬉しいから

自分は気にしないから

だと、相手の立場ではないんですよね。
それ、テメーの主観。

「実は嫌なのでは?」

「なんか辛そう」

「めんどくさそうだな」

もしそう感じたら
そういう言葉は
出にくくなりますよね。

そして、相手の立場で
人と会話をしていると

本当に見てほしいこと
分かるかも知れませんよね。

「あ、この人は顔じゃなくて
ファッションを褒められたいんだ」

とか

「ここはコンプレックスを感じてるけど、
それをカバーするためにこんなことを
頑張っているんだな、この人は」

とか。

ここまで見れるようになったら
きっと人と関わることも
もっと面白いものになるでしょうね。

ルッキズム脱却は
社会全体も影響するので
めちゃくちゃ大変ですが

人に優しくなるのは
できるかも知れません。

ちなみに
逆にいえば

「あ、この人は褒め言葉で言ってるんだ」

そういう想像も大事ではあります(笑)
あまりに穿った見方を続けると
さすがに腐ってきてしまいます。

そして

「じゃあいっか、
ほっとこう」

このくらいサバサバできるように
今日も人生と戦いましょうぞ…(白目


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